烏賊の塩辛が見に行った映画や展覧会の感想など、日々感じたことを徒然に書いていきます。


by ika-no-shiokara
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鎌倉幕府終焉の地を訪ねて

この春から鶴見大学の生涯学習講座で鎌倉の歴史に関する講座を受講している。

鶴見大学は以前から鎌倉市と協力して鎌倉の遺跡の発掘調査にあたっているそうで、歴史学・考古学・美術史等の様々な分野の専門家により、発掘によりわかってきた鎌倉時代の町の様相が語られるのをとても興味深く聞いている。

この講座の特徴は、教室での講義だけでなく実際に2回ほど鎌倉の町を歩いて学習すること。先週末にその第1回目のイベントがあった。今回のテーマは鎌倉幕府の滅亡の後を留めている場所を訪れること。江ノ電の稲村ケ崎駅前に集合した。当日は皐月晴れで稲村ケ崎駅は多くの環境客でごった返していた。あとで聞いた話では、ちょうど江ノ電でウォーキングの企画をやっており、我々とほとんど同じコースが指定されていたようだ。

駅からほど近いところに最初の訪問地、稲村ケ崎があった。新田義貞が鎌倉を攻めるにあたりこの地で剣を海に突き刺すと海がさっと開けて新田の軍勢が鎌倉に入ることができたとの伝説の地である。勿論実際には干潮を利用していたわけだが、14世紀は小氷期による寒冷化が進んでおり、パリア海退といって海岸線は現在よりもかなり沖合にあったらしい。

新田軍が稲村ケ崎を突破するまでは、必ずしも新田軍が一方的に有利に戦っていたわけではなく、むしろ幕府方が天然の要塞である鎌倉の地形を利用してよく要所を守っていた。ただ、稲村ケ崎を見下ろす霊山山をめぐる戦いで新田方の三木俊連が奇襲により勝利を得たため、稲村ケ崎を通過する際に山の上から攻撃される憂いがなくなり、一気にここを突破できたのだ。
急な坂を昇り、霊山山の戦いの故地と思われるあたりに着く。なるほど、ここからは由比ヶ浜・材木座海岸から和賀江島までが見通せる、いかにも軍事的要衝だ。切り通しを通る軍勢には雨のように矢を射かけられる場所だったのだろう。

山を下りるとすぐそこに極楽寺がある。極楽寺といえば、昔人気だった中村雅俊の青春ドラマの舞台だが、中世の極楽寺というのは現在よりもはるかに規模が大きく、貿易などの経済的な利権をたくさん持っていたという。開山の忍性は、極楽寺を拠点に土木事業・社会福祉事業を展開したやり手の事業家でもあった。当時極楽寺は鎌倉幕府のいわば厚生省兼経済産業省兼国土交通省のようなものだったと、これは翌週の講義で言われた話。この後由比ヶ浜を訪れたが、ここでは革の加工などに携わる被差別民とそれを統括する者の住居跡が発掘されている。

それから段蔓を通って北条得宗家の屋敷のあったと推定される小町通りへ。歩く道すがらたびたび、ここも発掘した、そこも発掘した、と説明がある。いたるところで鎌倉幕府滅亡時の戦いの跡から人骨が発掘され、総数は1万を超えると推定されるとのこと。吾妻鏡では死者数千と言い、その信憑性が疑われていたが、発掘結果によりそれをさらに上回る大惨事だったことがわかってきた。

最後に、北条高時が自決したという東勝寺跡を訪れた。滑川を東に渡り坂を上ったところにあるその地は、地形的に守るのが容易で、寺と言っても城のような軍事的な要衝だったのだろう。今は寺の建物も何も残っておらず、北条氏の最期を留めるよすがもない。ただ、国の史跡に指定されたため、何らかの形で国民に公開することを検討中のようだ。

実際に鎌倉の町を歩いてみて、地形など書物ではよくわからない点が足で確認できた。書物を読むことも大切だが、実地での経験が助けてくれることも大きいと思った。鎌倉は子供のころから何度も来ているが、改めて自然と歴史性に富んだ素晴らしい土地だと感じた。鎌倉は今、世界遺産の指定に向けて、全市をあげて取り組んでいるという。神奈川県民として、ぜひ応援したいと思う。
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by ika-no-shiokara | 2007-05-27 09:47 | 歴史